2024-5-6 16:52
A.Mucha
僕は美術展の会場で涙した。
作品の世界観に圧倒されて。その完成度の高さに圧倒されて。
与えられた題目に対する自分の発想力や技量のなさを身につまされて。悔しくて。つらくて。プレッシャーで。
今回、人生で初めて目の当たりにした、アルフォンス・ミュシャ。
絵画にある程度興味がある人なら、知っているだろう名前。
定かではないが中高生の頃に出合ったように思う。何かの入場特典でポストカードをもらった。図柄はランダムで、僕は黄道十二宮だった。もっと幼き時には、誰からの影響でもなく「星」や「暦」が大好きで、そこから当たり前のように自分の根底に流れている僕にとっては本当に美しすぎる絵であった。
田舎で、インターネットも今ほどではない時代であり境遇であった。だからそのたった一枚のポストカードが僕のすべてだった。それで十分だった。知れば知るほどミュシャ然とでもいうべきフォーマットは、強すぎ、暑苦しく感じられて、そして一辺倒にも見えて、僕は距離をおいていた。
絵の依頼は依然として煮詰まっていて、あえてしばらく触れていなかった。
面倒くさいので父と母にも経緯と状況だけはカミングアウトしておいた。
とにかく「詰」まっている自覚こそあったけれど、それはあくまで客観的な感じであった。自分のことでありながら、だいぶ手前の段階で距離をおいて、冷めた感覚で見ている、とでもいうような。
「降りたい。逃げ出したい」とか、冒頭のような気持ちや状況の言語化ができたのは、作品と対面したときだった。
ミュシャはリトグラフ。輪郭線や幾何学の組み合わせ、ややフラットに感じられる着色のせいで、ある種、簡単そうに見えるが、この完成度に至るまでには、当たり前すぎる話ではあるが、並大抵ではないセンス(デッサン力はもちろん、発想、構成)が要される。フラット=省略されていても、貧相でない、むしろそれが紛うことなき正とすら思わせる仕上がり、何であるかわかること、装飾模様として図案化され、随所に組み合わせて敷き詰められていること。そして
「あぁ、おそろしい…」
どんなに小さな作品(挿絵)でも、どこまでも精密に描き込まれていること。解像度が高すぎる。
強すぎ、暑苦しいと感じていたのは、圧倒的な技量と世界観そのもので、僕はもう最初から本能レベルで圧倒されていたのだろう。
打開策になるという期待はなく、ただ時間があって、近くで開催されているからと、立ち寄ってみた次第。
結果的に収穫はあった。依頼の難所、極端な縦横比はミュシャの縦長の絵にだいぶ近く、それは頭ではわかってはいたけれど、いざ目のあたりにしてみてようやく励まされた気分だった。
狙ってないときほど得られるものは大きい。といっても、相手が本当にすごすぎるので、本当に全く参考にならない(自分のものとして落とし込みきれない)。”真似”るのがせいぜいだろう。もうそれでもいいだろう。背は腹に変えられない。
何より久々の悔しまじりの感動の涙は清々しかった。
僕はいつもここから始まる。きっとうぬぼれが強すぎるのだろう。