立花仙蔵先輩は段違いの人だ。
人の肉が焼け、血と混ざりあった脂の蕩けゆく死の薫り。鬨の声が渦巻き、絶え間なく聞こえる剣戟の音、一際高く響き渡る銃声。城は人に取り巻かれ、空は様々な旗印で彩られ、地面は赤に埋め尽くされる。
最悪で醜悪。武悪の面をして十悪を犯す兵士の多くはただ生きるに必死なだけの偽悪者。しかし、その行為は紛うことなき重悪である。
腕っ節の強き猛者、運の良き果報者、惨状の中でも正体を見失わない冷血漢、狂気に呑まれ戦場に縫い止められてしまった殺戮人形。生き残れるのは果たして誰なのか。生き残るのは果たして誰であれば良いのか。
「おい仙蔵、そろそろ行くぞ」
「戦況も確認できたしこれ以上の用は無い。行くか、文次郎」
兵士に気付かれないで偵察ができる丁度の距離にある木々の枝の上に、二人の忍者がいた。お互いに聞こえる丁度の声音で言葉を交わし、これまた丁度のタイミングで枝を蹴る。
忍者の名は潮江文次郎と立花仙蔵と言った。忍術学園六年い組の生徒達で、授業の一環として戦況を見極めていたのだ。二人は学園に向かいながら、報告内容の確認をする。
「現時点ではツキヨタケ軍が優勢だな。兵数はニガクリタケ軍の方が多いが、兵の士気が落ちて圧されてきている。兵糧の準備の差が物を言ったな。ニガクリタケ軍はこれ以上長期間の戦に耐えられるとは思えねえ。お前はどうだ」
文次郎は仙蔵を見遣る。驚くべき速さで森を駆けながらも息一つ乱れない。表情も平生そのもの。先の惨状をなんとも思っていないのか。
「私も異論はない。しかしツキヨタケの密使がドクツルタケ城に遣わされたからな。うまく援軍が来れば、覆せる程度の戦況だ。まだどう転ぶか分からない」
そう言って、仙蔵は整った顔に意地の悪い笑みを浮かべて文次郎を見返した。
今頃、立花先輩達はそんな遣り取りをしているのだろうな。四年い組の教室の窓から青く晴れ上がった空を眺めながら、ふわふわと、ぼんやりと、僕は益体もない妄想に耽っていた。
今までの物語は妄想の産物であって現実に起こっていたことではない。確かに六年生の今日の授業は実地訓練ということで戦場に行ってはいるだろう。しかし学級どころか学年も違う僕が、立花先輩の受けている授業内容そして実態を知るべくもないのだ。
どこからか送られてくるとげとげしい視線を感じて意識を戻し、教室内を見渡してみる。おやまあ、滝夜叉丸がこちらを睨みつけているではないか。窓の外ばかり虚ろな目で見ていたから授業に集中しろと言いたいのだろう。しかし、今から授業を真剣に聞いたところで就寝前に部屋でこっぴどく説教されるのは自明の理。この時間は好きに過ごさせてもらおう。
瞼を閉じると一層熱のこもった視線が送られてきたが関係ない、もう一度立花先輩の姿を思い描いて、僕の世界で躍動させ始める。
僕、綾部喜八郎と立花仙蔵先輩は、そう、まずは学年が違う。
二学年も違うのだ。
授業が全て終了した放課後。所属している委員会ごとに集まって、時たま活動を行うことがある。僕が所属するのは作法委員会。
一年い組の黒門伝七、一年は組の笹山兵太夫、三年は組の浦風藤内は作法委員で僕の後輩。そして立花仙蔵先輩も作法委員会に所属している。それもただの人員ではなく、我が作法委員会の頂点に立つ委員長様である。
作法委員の皆で首実検に使う化粧道具を仕入れに行った日があった。つい二、三日前の話だ。山を一つ越えたところにある町で買い物を終えるまでは天気が良かったのに、休憩に入った甘味処から出た時には雲行きが怪しくなっていて、忍術学園まで急ぎ歩を進めるも空しくどしゃ降りの雨に打たれる結果となった、あの日の話。
忍術学園にたどり着いた頃には、僕たちは全身濡れ鼠になっていた。軒下に駆け込む。雨に濡れた衣服は軽く絞っただけで水を吐き出した。頭上を見遣ると、とぐろを巻いたうす暗い灰色の大蛇のような雲が天を席巻しており、未だ雨の止む気配は見えなかった。購入した化粧道具は各自が包みごと懐の奥深くに入れていたので何とか無事に済んだようだ。
立花先輩は伝七や藤内達からそれを預かり、後は委員会室に置きに行くだけなので私一人で十分だから今日の委員会活動はこれにて終了だ、と告げた。どうせだから私達も行きますと言う後輩達の背中を、いいから早く自室に戻って風呂へ向かえと立花先輩は追いやった。
冷酷に見られることも多い立花先輩だが、実のところは冷徹な頭脳を持った人一倍温情ある人物だ。
水分をたっぷり含んだずっしりと冷たく重い着物をこのまま着ていれば、明日の朝に起床する時には咽が痛みを訴え、午後に入ると鼻水と寒気が止まらなくなり、晩御飯前には医務室の床で熱にうなされるのが彼には容易に想像できたのだろう。
優しい先輩は、可愛い後輩に風邪を引かせたくないのだ。
自身の体は顧みないなんて、ああ、立花先輩は器が大きいなぁと思った。
器量だけでなく、持っている力量、才能も抜群なのだから真の器物だ。成績優秀で何をさせてもそつ無くこなす。特に火薬に関しては生徒の中で右に出る者はいない。容姿は端麗、女子からの人気は勿論のこと、女装をさせれば町一番の美人でも逃げ出したくなる程。
完璧超人でありながら更に出来た人で、お人よしな所があって面倒見も良いとくる。後輩に指導をしたり助言を与えたりすることは日常茶飯事。
しんべヱと喜三太の二人にはしょっちゅう迷惑をかけられているようだが、どれだけ厄介事に巻き込まれても二人が心配になって、なんやかんや構ってしまうようだ。なんと素敵なのだ、貴方という人は。
僕と立花先輩では能力という能力が違う。実力が違う。思慮が違う。
全く以て、悲しいくらいに。違うのだ。
お前達は早く部屋に帰れと頑なな立花先輩に、私達も残りますとこれ以上粘っても埒があかないと判断した後輩達は、ありがとうございますと口ぐちに言いながら廊下を走っていった。
「ほら、何をぼうっとしている。お前も戻れ、綾部。濡れた着物が張りついて寒いだろう」
駆けていく後輩を立ちん坊で見送る私に立花先輩は首をかしげて言った。
嫌です、私は戻りませんからね。意思を伝えようと首を横に振り、立花先輩の目をじっと見る。
「お供します」
そう一言告げた。先輩一人だけ任せるのは申し訳ないし、何より、せっかく二人きりになれる好機だ、みすみす逃す手はないだろう。
「ふむ……好きにするといい。綾部ならば大丈夫か」
少しの間、先輩は顎に人差し指をあてて目を伏せたが、切れ長の目をすぐに開けて、一つ頷いた。言うが早いか、私に背を向けて歩き出す。
「行くぞ」
「はい」
「私達も雨に打たれているのだからな、長居は無用だ。ちゃっちゃと片付けて帰るぞ」
やったあ。下級生より十分に体力があると判断されての同行許可だ。先輩に私の力を認められたようで嬉しい。足取りも軽く先輩についていく。
雨は未だ止む気色もなく、濡れた衣服は湿った外気により冷えだしていたが、心は反対に温かかった。
貴方とのこんな些細なやり取りに、私は不思議と幸せを感じるんです。
簡単で、簡素でいいんです、一緒にいられるだけでいいんです。後輩以上に想われることなんて望みませんから。
立花先輩と僕の違いなんてたくさんある。身長だって先輩の方が拳一つ分以上大きいし、他にも挙げきれないくらいにある。基本的に立花先輩が段違いに上で、僕は段違いに下だ。
だけれども。
一つだけ僕が格段に先輩よりも上を行くものがあるのだ。一番の差。最上級に大きな差であり、一生かかっても何時になっても追いつかれることはない、埋められるべきでない差なのだ。
それは当然、僕が先輩を想う気持ち。
唯一、段違い上の先輩に勝てるものだから、この気持ちを僕は大切にしている。立花先輩は僕を後輩として大事に思ってくれているのに、僕は彼を、先輩という関係以上に特別に想ってしまった。
今の安穏とした関係を壊したくない。先輩は六年生だから、あと少ししか一緒に学園生活を送ることはできない。もうすぐ壊れる関係性をどうして自ら壊そうか、壊してたまるものか。
立花仙蔵先輩が段違い上の男であることは間違いないけれど。
彼にも勝れるたった一つの気持ちを持ってして、僕も段違いの男、段違いに立花先輩が好きな男として、自己満足しながらこれからも生きていく。
不言実行を体現したような性格である私が、自分の心に宣言した。だから、この気持ちは確実に絶対に必然的に、伝わることも届くこともないのです。
一人できらきらして、どきどき、ふわふわ、そわそわして、好きって気持ちで目一杯遊んで、そうして人知れず朽ち果ててみせます。悟らせて貴方に気遣わせませんから、私が目を閉じるまでは、許してくださいね。
まあ許すもなにも、貴方は気付けるはずがないのだった、僕のこの気持ちには。
へへ、冷徹な頭脳で何でも見通せると思ったら大間違いなんですからね。残念でした。へへ。
大好きです、先輩。大好き。