この日がやってきた。ついに。いや、ついにとか言いつつ毎年のようにやってくるわけだけれど、いつもより少しだけこの日の前は身構えてしまう。仕方がない。「なんかこう、あれでしょ? なんだかんだ言いつつみんなやることやってんでしょ?」という空気がいたたまれない気持ちを加速させるのだ。そういった空気だとかを、面倒だと思うと同時に、羨む気持ちもある。当然だ。ぼくだって人間だし、したい。いろいろ。それはもう。いろいろ。
だがしかし、それはいつものことだ。そして過去のこと。今年は違う。今年はなんといってもそう、彼女がいる。次元の壁が超えられない先にいる人だとか、二次元と三次元の間の存在とかではない。れっきとした、人間の、彼女だ。生まれてからこのかた、そういったお付き合いとは無縁の生活を続けていたぼくが、ついに、今年をもってして、ないものねだりの人生を離れ、手に入れた幸せである。しかもあれである。十二月の、なんかこう、皆々様のテンションが浮き足立って、浮世離れしてそのまま昇天していく、みたいな、現実離れしたこの日に、恋人がいる。その事実だけで、ぼくはついにやったんだな、という実感が湧いてくる。
そんな幸せにまみれた十二月の終わり。世間で言うクリスマスイヴ。ぼくはといえば駅にいた。駅にいて携帯を片手に絶望していた。
「やっぱ無理」
いつの間にか普及していた連絡用アプリ、彼女の可愛らしいアイコンから放たれた一言にぼくは絶望していた。何を伝えたいのかがわからない。いやわかる。わかりたくない。今日という日に拒絶の言葉、それの意味するところが。
「嘘だろおい……」
とりあえず口にしてみる。現実感が増した。いつもより早めに起きて、いつもより気合の入った服を着て、いつもより余裕を持って待ち合わせ場所に行く。このリアリティ溢れる気持ちを流行りの短文投稿サイトに書き込もうとしたけれど、思った以上にダメージが大きかった。というかこういう自虐を次々に書き込める人は本当に何なんだろう。こんなの、あんまりじゃないか。昨日までの浮ついた気持ちが嘘のようだった。地に足がつく感覚とはこういうことだろうか。たぶん違うけれど。
人の往来が絶えない駅の柱に寄りかかったまま呆けていると、ポケットにしまいこんだ携帯が振動する。もしかして、彼女だろうか。「ごめん、やっぱりさっきのなし、今から行くね」とかそういうことだろうか。少しばかりの希望で右手を動かせば、ディスプレイに表示されていたのは迷惑メールの通知だった。叫び出したい衝動に駆られる。なんだこの仕打ちは。まっとうに生きてきたはずなのに。ぼくは喉元まで出かかった怒声を飲み込んで、それから、この場所からいち早く離れようと改札を通り抜けた。待ち合わせの時間まで待っているなんてできなかった。
○
「十二月二十五日! クリスマスの運勢です。今日の――」
今朝もテレビではいつもように占いが流れている。かつてはまったく興味がなかったのだが、いろいろな占いを調べては実践していた彼女の影響で少し気にするようになった。とはいえ、その彼女とも昨日連絡があったきり、音沙汰が無い。今頃何をしているんだろう。違う男の隣で寝ているのだろうか。そうであったらぼくはもう立ち直れないかもしれない。むしろすでに立ち直れない気がする。
敷きっぱなしの布団の上でごろごろと惰眠を貪っていれば時間は過ぎていく。切り取られた時間の一区画、部屋の真ん中でぼくは動かない思考と体を持て余していた。無力感とはこんなにも突然襲ってくるものなのかと、驚き混じりにため息をつく。
「――では次のニュースです。昨晩都内のレストランで火事が――」
つけっぱなしのテレビからは淡々とニュースが流れている。それを消すのも億劫で昨晩からほったらかしにしている。今日は休みだ。とはいえ、暇な日は何をしていたか考えてみてもなかなか思いつかない。ふと気がつけば彼女の事ばかりを考えている。はたから見れば気持ちの悪い男が部屋で横たわっているだけだ。自分で考えてそれなのだから、実際に他人が目撃したとすれば、恐らくもっと現実感に満ちた絶望なのだろう。このまま目を閉じれば、もう少し時間は過ぎてくれるだろうか。この振りきれて把握しきれなくなった感情が凪いでいくだけの時間が。
どれだけの間そうしていただろう。ふと時計を見れば夜の七時を回っていて、今日は何もしなかったんだなあと改めて思う。癖のように携帯を覗きこめば新着メッセージが一件。
「昨日はごめん。今から会えるかな」
○
「来てくれてありがとう。それから昨日は本当にごめん。ずっと楽しみにしてたのにこんなことになっちゃって」
ぼくは返事をする前に彼女がぼくを呼び出したことに対して驚いていた。まったく、何がなんだかわからない。閑散としたカフェにはぽつぽつとカップルが座っていて、皆幸せそうに笑っている。そんな中でぼくらはたぶん異様な雰囲気でそこにいた。彼女はゆっくりと、少しだけためらうような仕草を見せて、けれどしっかりとぼくを見て口を開く。
「昨日は本当に私が悪くって、君と別れたいなんてこれっぽっちも思ってないんだけれど、ああするしかなかったの。それ以外の言葉を重ねれば私と君は間違いなく仲直りして会ってしまっていたし、それだけは避けたかった。だって、昨日君と私が会っていたら間違いなく君は死んでいたし、私はそれを嘆いて自ら命を絶っていたでしょう。占いで出てるの。そうやって。嫌だったのそれが。私はまだ君と話していたかったし、君には本当に悪いことをしてしまったけれど、君も同じだったんじゃないかと思うの。ねえ、あのレストランのニュース見た? あのお店、確か予約していたところだったと思うんだけど、昨日の夜火事になっちゃったんだよ。何人も怪我したみたい。それから、空席だったテーブルの上に柱が落ちていたんだって。ね、わかった? これも占いで出ていたんだけど、よかった、本当に、行かなくて。ううん、行けなかったことを喜んでいるわけじゃないの。君とこうして話せていることにほっとしているの。これだけは、わかってほしい。私は君が大好きだし、これからもたぶんそう。だから、もう一度、仲直りしてほしい」
「占いなら、そう言ってくれればいいのに。ぼくの命を考えてくれていたというのは嬉しいけれど、それを伏せて伝える意味がわからないし、それも占いで決まっていたというのならぼくはもうそんな人とは付き合いきれないよ……」
「そっかわかった。ごめんね、そう言うのもわかってたんだけど、どうしても伝えたくて。ごめんね、ありがとう」
彼女はそう言って申し訳なさそうに笑う。それから、彼女はそっと席を離れた。何の気なしにそれを目で追えば、店の外にいた見知らぬ男と楽しげに歩き去っていく。なんだ、ただの浮気じゃないか、波風立たぬ気持ちに自分自身少しだけ驚いて、冷めてしまったコーヒーをすする。酸味のきいた苦味に、これが大人の味かとぼんやり思う。目の覚めるようなクリスマスプレゼントだったなあと自嘲するようにつぶやけば、別に面白くもないのに案外しっくりきてしまって、もう一度コーヒーをすすった。
おわり。
○
(メリークリスマス。それからそれから)