「夏は冒険の季節なのよ」
七月の終わりの空に風鈴が揺れている。風は弱く、風鈴は鳴らない。外は快晴、むしろ猛暑、午前中だというのにむっとする熱気がセミとセッションしている。
部活を引退し受験勉強に本腰を入れ始めたルカが、勉強会と称して人ん家に突撃をかましてきたのがさっきのこと。一階和室にちゃぶ台を出したのがその後。自分から勉強と言い出したクセに、あまりの暑さにシャーペンを放り出して扇風機にへばり付き、わけわかんないこと言いだしたのが今。
ルカの発言が唐突にして脈絡もないのはいつも通りなので、オレは気にせず麦茶を注ぐ。透明な赤茶の液体の中で、氷が破裂音を立てた。
グラスに口を付ける。軽く喉を潤し言った。
「……冒険ってあれか。派手な格好して盛り場を練り歩くみたいな」
「そういう方向性とは違うわね……」
ルカが扇風機からこちらに向き直る。やっと風が来た。
何故オレがエアコンのある自室でなくわざわざ一階に下りて勉強しているか。理由は単純、夏風邪気味だからだ。どうにも喉が痛く、クーラーをかけていたら悪化しそうな予感がして、扇風機で様子見することにした。どうにも指先の感覚が戻らないのは冷えのせいだろう。
ルカが扇風機から剥がれ、ノロノロと本を掲げた。古めかしいハードカバー。ルカが読書感想文の題材に選んだファンタジー小説だ。内容は確か、少年少女が異世界にトリップする話だっただろうか。
「ちおりん聞いて。あたしらもう中三なのに、まだ人生において一度も! 異世界を救ってないのよ!!」
……。
これが夏の暑さのせいだったらどんなに良かっただろう。
だが、悲しいことにこいつは至って通常運行だ。
そして悲しいことにオレはすっかりこいつの言動に慣れている。
無視したいのは山々だが、付き合ってやることにした。
「言うに事欠いて異世界かよ……。この世界はどうすんの」
「どうせ最終決戦であっちとこっちが繋がるから、二つの世界の命運はまとめて主人公の勝敗にかかるわよ。だから勝てば両方救えるわ」
「なんのセオリーだよ」
「この本」
ルカはさも当然という顔で答えた。頭が痛くなってきた。
「夏休みに異世界行ってパートナーモンスターと交流を深めるのよ! だいたいこういうのって高校一年までじゃない? だからそろそろチャンスがないわ大変!!」
「うわ……妄想が小学生レベルなんだけど……」
そもそもパートナーモンスターって何だ、ゲームかよ。
「別にロールプレイング的なファンタジーじゃなくたっていいのよ!? 路地裏の自販機の隙間とか、屋根裏とか、そういうとこから異世界に行く『ちょっとふしぎ』な感じもアリね!! 二時間アニメ映画になるくらいのボリューム希望よ!!」
なんでこいつはこんなに暑いのにこんなに元気なんだ。
ルカはひとしきり騒いでやる気スイッチが入ったのか、急に机に向かい合って原稿用紙を埋め始めた。筆記具がリズミカルに走る。
「ここではない場所でー、きっとワクワクするよーな冒険がー待ってーるー」
「歌わないでこっちの勉強止まるから」
上機嫌で気の抜ける歌を歌う姿に猛烈に苛立ちを覚えた。
こいつは昔から異世界へ、非日常へ、並々ならぬ好奇心を抱いていた。
無性にイライラする。
この世界のことはどうなんだ。どうでもいいとでも思っているのか。オレのことも。
「……そんなに行きたいなら一人で行っちまえ」
「何言ってんの千織も行くのよ?」
なんだって?
思わず滑ったシャー芯が変な軌跡を描いたが、オレは消しゴムをかけるのも忘れてルカを見た。ルカは夕飯の献立を話すような調子で至って気楽に言う。
「だってちおりんいないとワクワクも半減よ!? ってわけでちおりんにはクールとクレバーさを武器に困難を乗り越えてもらうわ!!」
「確定事項かよ」
「そうよ。あたし達はずっと一緒なの。当たり前じゃない!!」
自信と信頼に溢れる力強さだった。そこに微塵も疑いを抱いていない。
こんな感情を向けられて、嬉しくないわけがない。
オレはさっきの考えを恥じた。すると、意外にすんなりと言葉が出てきた。
「ごめん、ちょっと拗ねてた」
ルカは薄く苦笑した。
「あたしはここも楽しいけど、もっと楽しい場所があるに違いないと思ってる。それで、千織がそばにいれば最強」
「何言ってんだか。オレがあんたに付き合わないわけがないのに」
「んふふ、そうよねん。なんだかんだでちおりんはあたしに甘いしー」
「ばっ……!!」
ルカがニヤニヤと意地の悪い笑みをしたので、ペン先で軽くつついて黙らせる。
「ねー千織」
「んー?」
「いつか二人で冒険するわよ!! もちろん家に帰るまでが冒険なんだからね!!」
「あーはいはい」
「暑さでへばってキてるわね!?」
などと、やり取りをしながら。いつかこの他愛もない約束が果たされればいいと願った。