話が始まりますー主人公はリン。
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話が始まりますー主人公はリン。
一
ベッドタウンとして知られるこの土地には、多くの人々が暮らしている。
町外れには大規模な波止場があり、貴族たちの遊覧船がその大きさを競うように主張し合っている。それが毎夜のように出港しては、今日もどこかの貴族が船上で晩餐会を開く。
漆黒に広がる海の中、少し離れた場所で船上の明かりを眺めながら、リンは好奇心を抑えきれずにいた。
普通の人間ならば、この近海で夜の海に入るなど自殺行為だろう。だが、リンは違っていた。一見、人間のように見えるが彼女の下半身は月光の下でもよくわかる、鮮やかなオレンジの鱗で覆われている。人ではない。人魚、と呼ばれる単一性の種族である。
(あぁ、ついに……!)
今日こそ、あの船を間近で見ることが叶うのだ。
姉に言われたこの距離からでは、船の上がどうなっているのか全く把握できない。この位置からわかるのはせいぜい船の形と、わずかに聞こえる音楽だけだ。
近づけば、普段は口煩い姉に止められる。昔、無理矢理陸に引き揚げられた人魚のことを、彼女は説教のたびに口にしていた。けれど姉とて、姉妹がその後どうなったのか知っているわけではないのだ。リンには、人間がそれほど危険な生き物には思えなかった。
煩い姉は今日、用事で遠方へと出かけていていない。絶好のチャンスだ。
長い金髪を躍らせ、なるべく音を立てないようにして水中から近づいていく。このような大きな塊に大勢の人間が乗って浮くというのは不思議なものだ。明るく照らされた船上からは、軽快な音楽がはっきりと聞こえる。
ちらちらと覗く人影に見つかってはまずいと思い、リンは反対側の位置へと回りこんだ。
突如、がちゃりと音がし、一人の少女が姿を現した。リンは驚き、慌てて水中へと体を隠す。船の明かりで照らされた海上で身を隠せる場所はなく、注意して見れば簡単に見つかってしまうだろう。
少女は、水中で息を殺しているリンには全く気付いていない様子で小さく息を吸い込むと、軽やかな声で歌いだした。
(綺麗な声……)
思わずリンは身を隠すのも忘れ、少女の歌声に聞き入った。声を抑えているようだが、澄んだ歌声に聞き入った。声を抑えているようだが、澄んだ歌声は海の上を滑り、どこまでも響くようだ。
(それに、なんだか懐かしい)
人間の歌など、今日聞いたのが初めてだというのに。彼女の唇から紡がれる旋律は、記憶のないリンの過去を思い起こさせるように震える。こみ上げる郷愁に浸っていたリンは、ふと歌声が止んだことに気付いて顔を上げた。
少女から見えないよう注意深く船に近づくと、中から少女とは別の声がする。どうやら女性のようらしく、相手がヒステリックに喚いたかと思うと、上から影が降ってきた。
ドボンと音をたてて沈んだそれは、間違いなくあの少女だ。リンは唖然とその光景を見ていたが、いつまでも上がってくる様子のない少女を追って、海中へと滑り込んだ。
(確か、人間は海の中で呼吸ができなかったはずじゃ……)
このままでは、少女が死んでしまう。必死で水を蹴って進むと、黒い海の中を不自然に沈んでいく少女を見つけた。
月の光は明るく、穏やかに寄せる白い波を反射してキラキラと輝いている。柔らかい砂が敷き詰められた浜辺に、リンは力任せに少女を引き上げた。
(よかった、生きてる)
少女は気を失っているものの、胸がわずかに上下しているのがわかる。
(この人が、人魚をも魅了する歌声の主……)
人心地つき、リンはやっと少女の姿をゆっくり見ることができた。
人魚のように透き通る白い肌。閉じられた睫毛は濡れてなおつんと上を向いて長く、形の良い唇は冷たい海水に晒されたせいか少し血色が悪い。彼女を飾っていた装飾品のほとんどはここに運ぶ経緯で流され、唯一残った薄紫色のドレスはたっぷりと水を吸い、華奢な体をくっきりと際立たせている。高く結いあげられた髪は解けており、彼女の濡れた頬にはりついていた。
(きれい)
遠目に見るばかりであった人間を、このような至近距離で見ることができるとは思いもしなかった。確かにリンは好奇心旺盛で、一際人間に興味を持ってはいたが、姉の忠告を全く聞き入れないまま人間に近づくほど向こう見ずな性格はしていない。
美しいと称される人魚の目からしても、少女は特別美しかった。整った容姿ばかりの人魚と違い、様々な姿かたちをしている人の中では、さぞかし目を引く存在であることだろう。
少女の姿に見とれていたリンは、近づいてくる足音の主が声を発するまで、全く気付かなかった。
「ミクさん!」
少し高いトーンの声は、走って来たのを象徴するように乱れている。彼は少女の姿をとらえると、リンには見向きもせず、転がるように走り寄ってきた。
「ミクさん、ミクさん……あぁよかった、生きてる……」
少年は少女の呼吸と温度を確かめるように触れてから、安堵したように彼女を抱きしめた。
「よかった……ほんとうに……」
抱きしめたまま俯く少年の顔は見えないが、語尾が震えていることからおそらく泣いているように思えた。
「ミクさんを救っていただいて、ほんとうに、」
リンの姿は認識されていたようで、礼を言おうと顔を上げた少年の碧い瞳が驚愕に見開かれる。それはリンも同じだった。
(なんで、あたしと同じ顔……)
彼は、リンとそっくりな見た目をしていたのだ。
同じ色をした肩までかかる金色の髪を後ろでひとつに縛り、体つきは男のものだったが、それを差し引いてもよく似ている。まるで水面に自分の姿を映しているかのようだ。
足がある。間違いなく、彼は人間だ。しかし偶然というには、あまりにも少年とリンは似すぎていた。
「――リン……」
少年の口から、掠れた声が漏れた。
それは波の音に攫われてしまうほど小さな呟きだったが、リンの耳にははっきりと自分の名が届いた。
これ以上、聞いてはいけない。自分の存在が揺らぐのを感じた。彼と出会ってはいけなかったのだ。
そんな衝動に駆られ、気がつくとリンは海に飛び込んでいた。
少年の呟きが耳から離れない。
そのことに軽い眩暈を覚えながら、リンは黒い海の中、人魚の住処へとひたすら潜っていった。