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放置していた

もう誰も見ている人いないだろうな。でも時々ここには戻って来たくなる。何やかんや、5年以上続けているからかな。わからないけれど。

リストカットの画像とか上げてたんだけど全部消してしまって、別にそれを残しておいたところで何になるものでもないんだけど何か勿体無いなあと思ってしまった。
もうああいう気持ちにも剤キメてダウナりたくもないけど、あの頃の記憶が本当に曖昧で(精神薬を乱用していたから当然と言えば当然だが)、自筆した感情が残ってたのはここだけだったのに消えた。まあそんなものなのだろうか。

みんな相変わらず仲良しごっこが好きだなと思った。嫌いな嫌いって言えばいいのに。あたしは好きな人としか付き合わないよ。でも今日は好きだった人の輪の中に久々に足を突っ込んだら、それこそ地雷平原を目の前にしたみたいに身体が動かなくなった。わからない。どうすればいいかわからない。この先どうやって付き合ったらいいんだろう。大学で知り合った大好きな年上の人達や、いつも会ってる人は全部話せるのに。もうあの人たちと会わなくなって8年。あたしもあの人達も昔は仲良かったけど、今はどうなんだろう。死んでたと思われてるかな。ドン引きしてるかな。良いんだけどね。


そう言えばCDを作った。プロのグラフィックデザイナーの友達がジャケットとケースを作ってくれた。簡易なものだが、すごく嬉しかった。今って良いね。素人でも機材を揃えれば家でレコーディングが出来る時代だ。いい時代だ。もう19歳ではないけれども、未だにその時作った曲を歌う。もう16歳ではないけれど、未だにその時作った曲を歌う。いつだったか、高円寺で路上ライブをしたら、ラッパーの男の人2人が即興でラップしてくれた。お姉ちゃんギターやってるんだ、もし良かったらセッションしよう、なるべく早いビートをくれと言われて、ギターをかき鳴らしたらすぐに仲良くなれた。寒い言葉だけど音の上だと本当に心が通う。あれだけ怖い目を合わす行為がいとも容易く出来る。嬉しかった。

好きな友達と話すことは幸せだけど、好きで、でも連絡をとっていない人とはどう関われば良いのだろうか。嫌われないように振る舞えば良いのだろうか。難しい。わからない。

最近、デザインの仕事をもらった。コーヒーを買ってる行きつけの店から絵本制作の仕事をもらった。エッセイの仕事ももらった。仕事は何処から入って来るかわからないから面白い。けなされることも慣れた。
でも何で、人間と関わることはまだこんなにも怖いのだろう。

春の到来

起き抜けのままコートを羽織って外に出て煙草を吸ったら、2月頭のようにしんしんと脳へ空気が入って来なかったので、ああ春なんだなあと思った。煙草は身体にとても悪いものだけれど、季節の移ろいに敏感に在れるから手放せない嗜好品のひとつで。

 

相変わらず春は「出会いと別れの季節」なんて過剰装飾されて、すぐに散ってしまう桜の花か何かのように例えられていて吐き気がする。死後間もない人間みたいに生暖かい春があたしは大嫌いだ。春になればすぐに命日が近付いて、初夏とかいう春の延長の最低なものが来れば、納骨の日を決まって思い出す。碌でもない季節だ。煙草は理性的で、他人に迷惑のかからぬよう吸えばいいだけなのに、吸っているだけで女としての価値が下がると言われた。そうかも知れないと思った。それ以前に、自分には女としてというよりも、人としての価値さえないのだから、当てはまらないと思った。認識されていないから誰からも見えないのだ。「自分なんてどうせ、誰からも見てもらえない」と悲観的に心中泣き濡れるのではなく、本当に、言葉のままに、誰からも見えない存在である気がしてならない。

誰かがあたしを見ていたとしても、その視線はきっとあたしという透明な壁を突き抜けた後ろに向けられているのだろうと感じる。自分に合わさっていない視線に呼応する気持ちでその人を見つめても、あまりに一方的だということに見つめてから気付いてしまう。大して忙しくもないくせにそういう振りをして目を合わせない言い訳を必死で作ってしまうのだ。すぐに目を伏せてしまう方が所謂ピンクベージュみたいで可愛いんだろうなって。

ああ、あたしを面白いと言って好きになった男はいつだって、誰だって、あたしを肥溜めから拾い上げる時は「そんなことはしない」としっかり笑って誓うのに、あたしを捨てる時に横に並べた女子はいつだって、いつだって砂糖菓子みたいな色合いの服を着ているのだ。どこが出したかわからないピンクのストラトキャスター6000円、ピンクベージュ、シャンパンゴールド、ありふれた優しさ、可愛さ、何を対象にしているかわからない愛される努力、白い糸、細い腕、ワンレングスのボブ、ピンクのLINE画面、「女の子が寂しい時は構ってよ」、「すぐに会いたい」、「永遠に私のこと好きかな」。ずっと負け続けて来た価値観。「それより面白い君の方が魅力的だ」って言われたけど結局負け続けて来た価値観。男にも女にも。女でさえそっちの方が好きなんだから、あたしに人の心の一角を借りることなど出来るわけがなかろうに。

 

だから、お飾りでいいやと思った。引き立て役でいいやと思った。いつだって四肢がぼろぼろになっても泥水を啜って凛とする猫みたいに強くは生きられない。

いつ別れようかと常に思考の何処かにその言葉がひそりと息をしている気がした。嫌われるのが悲しいとか、永遠なんてないとか、そういうのでなくて、向いてないと常々感じることが多いのだ。
円滑な交友関係も築けない自分にそれ以上なんて向いていない。

死ぬ為にたくさんのものを清算していっているつもりなのに、どんどん生きる為の枷をはめられる。

どうでもいい

もう誰からも嫌われてもいいかなあと思って来ている。どうせあたし飽きられる存在だし、みんなの精神が弱った時に、いつメンとかいうクソみたいなものの調和を乱さない為に吐き出されるオナホと変わらぬ存在でしかないというか。そんな人の為に何を努力して取り繕う必要があるのかな、とか。何で頑張ってにこにこしなきゃいけないのかな、とか。
優しくするのって実は凄く面倒で、うっかり本音が露呈すると「何だ、この人最低じゃん」って言われるのよ、優しいのが当たり前の人になっちゃうから。すっごく怠いんだよ。どうせ嫌われる人に何で神経をすり減らす必要があるかなって。

誰も理解してくれない死んでやるって嘆いてた子が、あたしならわかってくれるって縋って、待ち合わせの日にまつげのエクステに行くから遅れて来たから、「あたしの存在なんてまつエク以下なんだろうな、てかこの人昨日まで死ぬって言ってたじゃん」って一気にどうでも良くなって足から頭にかけて温度がさーっと引いてく気がしてた。まあでも死ななくて結果オーライと言えばそうなんだろうが。

死ぬ死なないを試す界隈って誰が一番死に近付くか、死の扉を叩いて帰って来れるかのいわばチキンレースで、そんなことで他人よりも切り立った崖っぷちに一歩多く踏み出しても何の生産性もなくてさ。死に近付いた方が本気の死にたいだとか、そいつの方が偉いだとか、そんなの全然ないんだけどさ。お前があたしの時間を刈ってまで言った死にたいって、まつエク程度で緩和されるものなのかよってただただ虚しくて。サロン予約とか全部取り消してまであの子が死なない為に作った時間は本当に無駄だった。
もう誰かに手を差し伸べるの辞めちゃおうかな。カウンセラーがわりに使われてもカウンセラーみたいにお金は貰えないし、メサコンじゃないから自分も特に満たされないし。くだらない時間の使い方するだけ。

自殺

出来なかった。酒と薬、あの頃と同じ方法、浮上してしまった意識、動かなかった身体、ある意味生きながらに死んでいるようで、あの頃を思い出した。
11月の寒さと、今と違う好きな人と、今より少ない口数と、今も続いてる友人関係と。
ブログでたくさんのものを得た。たくさん汚いものを吐き出した。たくさん失った。でもこれがあたしなんだ。そう思っていたけど、本当のあたしなんていなかった。
本当のあたしなんか居ないけど、どうにか生きてる。

27時間ぶりに目覚めて吸った煙草がめちゃめちゃ美味しくて、生きてる気がした。
友人が電話の奥で少し涙ぐんで「死なんといて」と言っていた。
惨めだけどもう少し生きようと思った。
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