「……よし、やっと撒いたな」
神父ベンジャミンの安堵の声が、深緑色の絨毯へ溜息と共に吸い込まれた。
もう地平線に潜り掛けの夕陽が廊下の窓から差し込み、壁にもたれ俯く彼の横顔を茜色に染め上げる。
その顔には隠しきれない疲労が滲み出ており、彼の外見を十歳ほど上に見せていた。
それもそのはずで、神父エドと悪魔三人を捕らえミュステリオンへ帰還後、彼は休む間もなく厄介事を片付けねばならなかったのである。
帰還直後から、ミュステリオン総務局広報課の質問攻めに遭うこととなり、それを適当にはぐらかした後も他局の人間が纏わりついて離れなかった。
やっと一人になったかと思えば、次は同僚の暴れん坊シスターとそのパートナーから訳の分からぬ質問をされ、何故かしらシスターからは有り得ない罵声を頂いた。
それから嫌々ながらも総務局へ出向いて、必要な書類を貰って素早く退出。
が、またしてもしつこい広報課に追いかけ回され、先ほど漸く逃げおおせたところなのである。
「……もう少ししてから移動するか」
そう呟いた彼は、何とはなしに辺りを見渡した。
ミュステリオンのシンボルカラーである緑、白、銀の市松模様で構成された廊下。
館内のありとあらゆるところがその色で統一されており、ミュステリオンの魔術師への敬意を片時も忘れさせないようにしている。
だが、それも徐々に薄まって来ている、とベンジャミンは最近強く感じていた。
敬意を未だに払うのはほんの一握りで、新参者になればなるほど、敬意など──まして畏怖するなどという気持ちがほとんどない。
その理由も簡単で、魔術師があまり表に出ないことが原因だ。
だが一度でも見れば、彼の恐ろしさと独特の雰囲気を体感することとなろう。
それだけ彼は──魔術師サニーロードは、誰にも逆らえぬ存在なのだ。
内ポケットから小さな振動が伝わった。
取り出した携帯電話の表示を見て、ベンジャミンは顔をしかめた。
周囲を確認してから通話ボタンを押し、耳にあてがう。
「……はい?」
「神父ベンジャミン、貴方の報告はいつになるのですか」
機械音声が話しているのかと錯覚するほど、感情を何処かに置いてきたような声が尋ねた。
思った通りの問い掛けだ、とベンジャミンは内心舌打ちした。
「それがね副局長、色々と追いかけ回されて、そっちには今日中に辿り着けないと思われるな」
「そうですか。では結構、一つだけ質問に答えなさい」
「……、報告はいらないのか?」
「既にシスター・ミュリエルから受けています」
「あー……そう」
くるくる金髪の小さなシスターが、ベンジャミンに向かって舌を出している姿が、脳内に浮かび上がった。
腹立たしい気持ちが湧き上がるが、今は押さえ込んだ。
全てを嘆息に変えて、電話の主の問い掛けに耳を傾けた。
「それで、質問は?」
「今回、協力者がいたそうですね。それは誰ですか」
俄かに神父の表情が堅くなった。
腹の中に爆弾を埋め込まれたような気分になり、ベンジャミンは間を置いてから口を開いた。
「……儀式屋の連中だ」
「シスター・ミュリエルの報告では、ピンクの髪をした眼鏡の男だったと聞いています。その男の名を尋ねたのですが、分からないとの回答でした……ただし、」
意味ありげに一度そこで言葉を区切り、再び聞こえてきた声は、僅かにベンジャミンを非難するような声だった。
「貴方のことを、ベニーと呼んでいたそうですね?」
「……副局長、断じて俺自らが接触したわけじゃない。悪魔を追っていたら、あいつが偶々そこに居合わせただけだ。それに今回の一件は、はっきり言えばあいつの協力なしでは解決しなかった」
「貴方の情の深さには感心しますね……ですがそれは、あの男には必要ないものです」
「聞け、アンリ。俺は、」
「違うとは言わせません。もし違うというのならば、何故その時にあの男を殺さなかったのですか!」
脳を揺らすほどの怒声が鼓膜を貫いた。
だがベンジャミンはそれに嫌な顔をするわけでもなく、ただ憐憫の色を示した。
普段は機械仕掛けのような男が、制御装置を無視して暴走しだしたような怒りを呈する理由を、ベンジャミンはよく理解している。
男の弁は正論で、何一つベンジャミンは反論の余地がない。
あの男──アキを殺さなかったのは、正しく自分が情けを掛けたためだと言っても間違いではない、そうベンジャミンは頭の片隅で思った。