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誰にだって罪はある



携帯が充電しにくい状況がしばらく続いておりました。

仰向けに置くor手で端子押さえないと充電できないっていう。

『これは精神衛生上よろしくない』と思った僕は、暇を見つけて充電器を買って参りました。

そんな訳で、

帰宅してすぐさまNew充電器、接続!








どうやら充電器ではなく本体に問題があったようです。







修理出すのめんどくせぇ…。

充電用のソケットって最も酷使される部品の一つだし、交換式にしてアフターパーツで予備部品発売してもいいと思うんだよね。

ISクソ03なんて裏面のケース全体が外れるんだし、そんな設計に出来るよね?

やっぱ素人が外せるようにしちゃマズイの?







どうも。

今日は、一つ思ったことがありまして。


社会問題の一つに、『いじめ』ってのがあるじゃないですか?

経験したことある人も多いと思います。

僕自信も、幼稚園の頃はいじめられっ子でした。いじめた奴ら今度会ったら殺す。絶対に殺す。


社会的には『いじめる側が100%悪い』という認識がされていると思います。

もちろん僕自信もそう思っています。一方的な暴力ほど、罪深く恐ろしいものはありません。


ただ、僕はあることを思いました。

ここからは批判も覚悟の上で申しますが、


ならば、果たしていじめられる側には全く落ち度はないのだろうか?


もちろん悪いのはいじめる側です。しかし、だからといっていじめられる側は全く理由もなくいじめられているのか?


僕は、いじめられる側に理由がある場合も存在すると考えています。

例えば、本当の気紛れでいじめられる場合などは被害者に何の落ち度もないと言えるでしょう。実際、そんなのは飽きたらすぐ終わります。

しかし、世の中にはどこに行ってもいじめられる人間っていますよね?

こんなことを言うと批判の嵐かもしれませんが、いじめられっ子タイプの人にはされるなりの理由があると思うのです。


少し話は変わりますが、『防災』や『防犯』といった行為があるじゃないですか。

これらは義務でも強制でもなく、個人個人が意識的に行うものです。

そしてこれらをすればするだけ、犯罪に遭う確率や災害で受ける被害なんかを軽減できます。

これらは完全に一人一人の努力の問題であり、もちろん努力しないことすらも可能ですが、そんな人にはあまりよろしくない結果が降り注ぐことが多いでしょう。

それと同じで、常習的にいじめられている人はそれから逃れるためには何故いじめられるのかを理解し、そこを改善する努力が必要だと思うんですね。


何度も申し上げておりますが、もちろんいじめる側が100パーセント悪いですよ。

だから、いじめられっ子が事実を告発さえすればいじめた側は制裁を受けるわけです。

しかし根本は何も変わっていない。だから、例えばクラス替えや入学なんかで自らを取り巻く人間関係が変わると、再びいじめの標的にされる可能性がある。

だってほら、いつもいじめられてるヤツってどこ行ってもいじめられてるじゃん!?ってか、何か分かるでしょそーゆー人って。

だからまあ、『防災』や『防犯』みたいな形で『防いじめ』みたいなのが必要なんじゃないかな?

まあ確かにさ、そんな努力しなきゃいけない時点で可哀想ではあるけども、現実問題そうしなきゃいじめられっ子は救われないわけで。

ただ受け身で、『自分は何も悪くない』って言ってるだけじゃ、確かに罪はないけど逃れることも出来ないじゃない。

例えばさ、見た目に気を使ってみたり、性格を良くする努力をしたり、いじめっ子を殲滅出来るほど強くなったり(僕の場合は何故か父親からボクシングを教わりましたw)



まあ、何が言いたいかっていうとさ、







自分から動かなきゃ何も変わらねぇって事だ!!







耳が痛い話ですね、非常に。

ノシ
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